【その1】講師の自己紹介 はしびと式へアデザインスクール5月5日開校予定!

初めまして、Dr.Shirouと申します。

少し長くなりますが、私の生い立ちや経歴などをご紹介させて頂きますね。

1962年4月3日生まれの寅年で2022年4月3日で満60歳になります。

九州の宮崎県宮崎市内で生まれました。

3歳の頃のDr.Shirouの写真

物心ついた時から裏庭の粘土で造形することが好きで、粘土を薪風呂の焚き口で焼いてレンガにして遊んでいるような少年でした。

好きなものというのは誰に言われたわけではなくても率先してやり続けるものですね。

幼少時から私は造形に興味関心が高かったようで、プラモデルやフィギアのオモチャなどにもはまっていましたね。

動物も好きで捨て犬を拾ってきてはおじいちゃんに叱られていましたが、幼少時に5〜6匹は拾ってきたように記憶しています。

他にも昆虫も大好きでクワガタやカブトムシは超大好きでした。

魚や爬虫類にも関心が高かったですね。

宮崎市内のマンモス小学校へ入学しました。

小学校時代の成績はオール5で中でも体育と図工が超得意でした。

絵画や工作はいつも入賞し金賞をもらい、全校リレーではいつも一番でした。

体育会系で高跳びや幅跳びなども学年で一番でしたが、球技はあまり得意ではなく野球などはあまりやらない子供でした。

父親がバイク屋をしていてカッコつけることが幼少時から大好きだったようです。

人気者で小学6年生のバレンタインデーには女子に24個もチョコレートをもらい、調子に乗って生徒会に立候補して生徒会長としても活躍していました。

小学校時代に女子からもらったラブレターは100通を優に超えていました。

人生初のモテ期は小学校時代でしたね。

小学校時代は楽しかった記憶しかありませんでした。

先生のことも大好きでしたし、クラスメイトや下級生も大好きでした。

特に女子が好きで、可愛い子を見るとやたら結婚したがるような子供でした。

もらったラブレターも100通以上あったかもしれませんが、出した数も同じくらいあったかも知れません。

宮崎市の子供の国で遊ぶことも大好きでした。

そんな人気者の少年でしたが、中学に上がると一変してしまいます。

まさに天国から地獄の世界へと激変してしまいます。

きっかけは中学校の入学式に朝から黒板に下ネタを書いたことがバレて担任の先生に思いっきり叩かれたことを完全に逆恨みし、不良の道に入ることになります。

今思えば芸術家肌の私は感受性が人よりも高かったのかも知れませんね。

また今ではADHDなどと小児心療内科で診断されたりするようになりましたが、昔はヤンチャで落ち着きのない子供はクラスに一人や二人はいました。

私の通信簿にもいつも手遊びが多いとか落ち着きがないクラスの人気者などと書かれていました。

暴力的な父親や、暴力的な学校の先生、そして警察官や少年課の刑事などみんな死んでしまえといつも思っていました。

もっと言うといつか殺してやるといつも思っていました、実現しなくて本当に良かったです!

中学時代のイメージで不良少年と連む不良少女。

中二で刑事に逮捕され、生まれて初めて留置場で宿泊することになる。中学3年間で補導と逮捕で何度も親が呼び出さたりしました。

母親は小学校の教師だったので、学校にたびたび呼び出されたり、警察署に呼び出されたりでいつも頭に円形脱毛症ができていたようです。

とにかく威圧的で暴力的な大人や先生が嫌いで、嫌いな先生の授業のテストは全て白紙で提出し、学年で最下位を常にキープすることになりました。

結局好きな先生が一人もいなくなり、テストは全て白紙で提出することになりました。

小学校時代のオール5から中学時代はオール1で学年400人中399番でしたね。

ビリッケツは不登校の少年がいたのでブービー賞ってところでした。

中学校時代のイメージです。実際にこんな感じでしたね〜。

高校受験は県内で受けられる高校がありませんでした。

なぜかと言うと受験以前に宮崎県内全ての高校6校から内申書で落とされてしまっていたので、もう受験とか関係ない世界にいましたね。

仲の良い同級生の友達は全員が高校1年生の夏休みに退学になっていたので、受験して高校行っても十中八九1年の夏休みに退学になっていたでしょうね。

中学2年の時にある事件を起こして少年課の刑事に少年院に入れると言われた時、父親が土下座して幸い少年院には入らなくて済んだんですが、心は全く入れ替えませんでした。

大嫌いな父親でしたがこの時は少しだけ感心しました。

しかし私は反省するどころか悪に拍車がかかり、ますます犯罪者のような少年になって行きました。

当時の私の辞書には「反省」と言う文字はありませんでした。

そんなこんなでどうしようもない中学時代でしたが、超刹那的な私に父親は手に職を付けろと言って、言われるがままに15歳で単身大阪へ行き調理師を目指すも調理の世界が肌に合わず2年後の1979年17歳で宮崎へ帰郷することになります。

なぜ向かなかったと言うと、大阪での調理場には汗臭い男どもが大勢いて、可憐な女子の世界が好きな私には全く合わない感じがしました。

17歳で帰省して、失業保険など貰いながら半年ほどぶらぶらと仕事もせずに遊んでいましたが、ある時父親に釣りに誘われ船の上で今度は美容師になれば?と言われました。

父親は嫌いでしたが幼少時からたまに釣りに行っていました。

私はそれを聞いて『え?美容師って女の仕事じゃないの???』そう答えたのを今も覚えています。

1979年ごろにはまだまだ男性美容師が少なく、男性は理容師、女性は美容師というカテゴリー分けされていたような時代でしたので、とても違和感を覚えました。

まぁヤンキーの私は床屋でパンチパーマしかかけたことなかったので、美容室の雰囲気とかわからない少年でしたね。

理容室しか行ったことのないヤンキー時代。

私は幼少時から床屋しか行ったことが無く、美容室とは無縁のヤンキー少年でした。

と言うか美容師と理容師の違いもよくわかっていないような少年でした。

父親に勧められるがままに美容学校の入学試験に行くとなんと!女子が100人で男子が10人とハーレムな世界があったわけです。

ナンパな私はその環境が超気に入りまして、無事に美容学校入学できて、るんるんした気持ちで通学することになりました。

17歳で入学試験を受けましたが、4月生まれの私はすぐに18歳になり暴走族になってしまいます。

元々中学時代からそういう先輩方と連んでいましたので、自然の流れというか、何というか気がついたら悪の道に嵌まり込んでしまいました。

明け方まで暴走して昼間の美容学校では寝ているようなほんと今思えばクズ人間でしたね。

卒業してインターンに行くわけですが、宮崎市内の男性美容師の先生がカットが上手で人気のある街一番の美容室に就職しました。

特攻服しか着たことないようなファッションとは無縁の超ダサい自分でしたが、初めておしゃれな先輩や、おしゃれな世界、美容師の世界を垣間見ることになりました。

特攻服で通勤していたので見かねた美容師の先輩から、古着屋に連れて行かれて洋服を選んでもらったりして、少しづつファッションにも目覚めて行きます。

遅咲きの桜のように19歳で髪型やファッションに興味津々となりました。

当時気に入っていたリーバイスの古着イメージ。

18歳の私はシャンプーがとにかく下手で何度もテストに落ちていました。

朝練習で先生自らシャンプーを教えてもらうはずが、私は夜中は暴走族で遊び回っていたので、どうしても朝起きられず、無断欠勤や遅刻魔となり朝練習を平気ですっぽかしていました。

ひどい時は何日も無断欠勤して親は隠れて美容室の先生にお詫びしていたそうです。(後日談)

なんかもう懺悔のような気持ちになってきましたが、こうして過去を改装する機会があることで、改めて自分のクズ人間ぶりが浮き出てきましたね。

インターン先の先生は今思えば相当心の広い方だったと思います。

その先生でなければ、私は美容師を続けてこなかったと思うし、東京に出ることも無かったでしょう。

入社してようやく半年後にシャンプーの試験に合格し、ブローの練習が始まりました。

シャンプーは超下手でしたが、造形になった途端本領を発揮します。

シャンプーは半年もテストに合格しないダメな美容師からのスタートでした。

シャンプーは超下手でしたが、ブローになるといきなり変身します。

ブローは見ているだけで練習なしなくてもいきなりできてしまって、先生や先輩方を驚かせました。

カットも同様に刈り上げなどは単純な作業なので、先生や先輩の技術をよく観察していると、自然と出来ていました。

もしかして今思うと、手先が器用なのではなくて、観察力やもっと言えば洞察力見たいなものが長けていたのかも知れません。

自分ではそれほど器用とは思わないし、カットもかなり下手だと今でも思う時がありますからね。

話を19歳のインターン時代に戻します。

ある時、先生に「僕の頭を刈り上げてみるか!?」と突然言われて、生まれて初めて刈り上げをしたんですが、いきなり出来てしまいました。

刈り上げをしている美容師のイメージ画像。

幼少時から粘土や工作が得意だったとは言え、とても不思議なことが起きてしまいました。

見れば習得してしまうという器用さはきっと、今は亡き父親譲りだったのかも知れないですね。

感謝感謝^^

2年ほど経った頃、先生と先輩方から東京で美容師の修行をした方が良いとアドバイスされました。

グダグダと暴走族と夜な夜な遊んでいる私を見かねたように美容室のスタッフ皆が口を揃えて東京に行った方が良いと言っていました。

最初は「え?東京?」と訝しげな感じでしたが、度々先輩たちに言われるようになり、だんだんとその気になって東京に行ってみたくなりました。

じゃ東京の行くための交通費を貯めようと考え、最初の美容室を退社して、給料の良い美容室量販店に行くことにしました。(薄利多売で激安価格の美容室)

プラージュみたいな格安でたくさんのおばさんを相手にする待ちはずれの美容室の雰囲気は街中のおしゃれな東京帰りの男性美容師が経営する店舗とはかなりかけ離れていました。

でも給料はいいので、半年くらい勤めていた時に交通事故に遭います。

交通事故のイメージ画像。

たまたま追突事故に巻き込まれて、保険金が降りました。

そのお金で東京に行き、アパートを借りて渋谷のパルコ内のスタジオV美容室に勤務することになります。

スタジオVという美容室は森英恵という世界的に有名なファッションデザイナーが経営している美容室でした。

その頃東京コレクションというファッションショーが開催され始めた頃で、ミラノ・パリ・ニューヨーク・そして東京とファッションのトレンド情報を発信するステージの裏方をしている美容室に就職していました。

これも偶然であったわけですが、私はまたまたおしゃれなファッション界に近づいていたのです。

それまでの人生、というか今もそうですが、案外他人のアドバイスを素直に聞き入れることで運よく道が開いて行く経験を数多くしています。

但し、ポリシーや哲学に関しては例外ですので、曲げない信念と小さくことは柔軟に他人のアドバイスに素直に従うことも大事です。

大好きなファッション界に参画できてかなりテンションが上がっていました。

私はスタジオVで美容師のアシスタントをしながら、カットをもう一度1から勉強していました。

毎日のように仕事が終わると、人頭モデルでカットの練習をしていました。

モデルは渋谷の公園通りでモデルハントする日々が当たり前になっていました。

今の渋谷公園通りイメージ画像。

スタジオVではウイッグを一度も切ったことがありませんでした。

なので、モデルの髪の生え方などもカットの勉強会で教えてもらいましたが、モデルハントの際になるべく癖のないカットしやすい女子ばかりを狙ってハントしていましたね。

ここでも造形が得意な私は本領を発揮することになります。

同期生は都内5店舗に30名ほどいましたが、最後に入社した中途採用の私は社内コンテストでも1〜2位を争う腕になっていました。

当時はカットが楽しすぎてテンション上がっていましたね。

今考えると、カットのモデルやお客さんの気持ちは完全に無視して、自分が切りたいヘアスタイルを強引に押し付けていたと思います。

例えば、顎ラインのボブが今の自分のテーマだと、誰が座っても顎ラインのボブを勧めていましたね。

顎ラインのボブスタイルイメージ画像。

今回のスクールではヒアリングやアドバイスを総合してカウンセリングという授業内容でお伝えして行きますが、相手となるお客様や人頭モデルの方の気持ちをいかに引き出したり、聞き出したりしながらアドバイスして総合的にヘアデザインを決定するのかというプロセスは、実際に切ったりかけたり、染めたりする以前にとても重要なプロセスであると考えています。

とても長い記事になりましたが、講師であるDr.Shirouがどういう幼少期を送り、どうやって美容師になっていったのか?またDr.Shirouとはどういう人物であるのか?の参考にしていただければ幸いです。

私は今年の4月に60歳を迎えるにあたり、美容師43年間の人生で皆様に重要なことだけを伝えたいと考えるようになりました。

多くの美容師たちを雇用して直接指導できない代わりに、オンラインで「はしびと式ヘアデザインスクール」を2022年の5月5日に開校し、多くの美容師たちと共に成長して行きたいと願っています。

はしびと式ヘアデザインスクール開校イメージ画像。

これは私の人生の総決算であると共に、遺言でもあります。

後世に続く美容師たちが本当に大切なことに目覚め、関わっていく多くのお客様を幸せにし、その結果自分自身も幸せになり、売り上げも上がるという善の循環が始まると良いと思っています。

もう一度言いますが、売上を上げるための技術があるわけではなく、お客様を幸せな気分にさせるために技術があります。

幸せな気持ちになったお客様がリピートして売り上げが上がるのであって、リピート率を上げるために技術の向上があるのではありません。

そして人にはキャパシティという器のような容量が決まっています。

スマホでも保存できるアプリや写真や動画に限界がありますよね?

それと同じで一度にいろいろたくさんのことをこなせる人もいれば、一度に一つのことしかできない人もいます。

それは良し悪しでは無くて、個性なのです。

そのままのあなたで良いのです。

人間の器は後天的に広げていけるものではあるのですが、現時点での力量は限界があります。

30万円の売り上げで安い給料でも幸せな美容師もいるし、50万円でちょうど良い美容師もいます。

私は月の売り上げが400万円に到達する頃に自分の器の限界を感じました。

これ以上売る上げを求めることで、無理をしたり常連のお客様を必要以上に待たせたり、未熟なアシスタントに大切なお客様を任せなければならなかったりと歪みが出てくることで、お客様も美容師も不幸になることもあります。

私がこれからスクールでお伝えしたいことの中心には確かに技術の向上というコンセプトがありますが、それは全て手段であって目的では無いのです。

目的は「目の前のお客様を幸せにすること」つまり顧客満足だけが唯一の目的なのです。

この最も重要な仕事のコンセプトを見失い、目先の流行や知識や技術を追いかけても無駄だと思います。

むしろ最初のボタンを掛け違えるように、全てがずれてきて結果が伴わなくなります。

また詳細はスクールで講義しますね。

ではまたここで会いましょう!

Dr.Shirou


はしびと式へアデザインスクール5月5日開校予定!講師の自己紹介【その2】

はしびと式へアデザインスクール5月5日開校予定!講師の自己紹介【その3】


一学期の講義内容についてはこちら

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP