【その2】講師の自己紹介 はしびと式へアデザインスクール5月5日開校予定!

皆様こんにちは。

はしびと式ヘアデザインスクール創始者のDr.Shirouと申します。

前回に続いて講師Dr.Shirouの自己紹介をして行きます。

前回書いた自己紹介記事【その1】はこちら。

前回のまとめは


人生60年間の総決算として全ての技術を惜しみなく遺書として残す覚悟。

これは私の人生の総決算であると共に、遺言でもあります。

後世に続く美容師たちが本当に大切なことに目覚め、関わっていく多くのお客様を幸せにし、その結果自分自身も幸せになり、売り上げも上がるという善の循環が始まると良いと思っています。

もう一度言いますが、売上を上げるための技術があるわけではなく、お客様を幸せな気分にさせるために技術があります。

幸せな気持ちになったお客様がリピートして結果的に売り上げが上がるのであって、リピート率を上げるために技術の向上があるのではありません。

そして人にはキャパシティという器のような容量がある程度決まっています。

スマホでも保存できるアプリや写真や動画に限界がありますよね?

人にはちょうど良いくらいの力量という器のイメージ画像。

それと同じで一度にいろいろたくさんのことをこなせる人もいれば、一度に一つのことしかできない人もいます。

それは良し悪しでは無くて、個性なのです。

そのままのあなたで良いのです。

人間の器はある程度は後天的に広げていけるものではあるのですが、現時点での力量には限界があります。

30万円の売り上げで安い給料でも幸せな美容師もいるし、50万円でちょうど良い美容師もいます。

私は月の売り上げが400万円に到達する頃に自分の器の限界を感じました。

1千万円売り上げてもちょうど良いという方もいるでしょう。

これ以上売る上げを求めることで、無理をしたり常連のお客様を必要以上に待たせたり、未熟なアシスタントに大切なお客様を任せなければならなかったりと歪みが出てくることで、お客様も美容師も不幸になることもあります。

私がこれからスクールでお伝えしたいことの中心には確かに技術の向上というコンセプトがありますが、それは全て手段であって目的では無いのです。

目的は「目の前のお客様を幸せにすること」つまり顧客満足だけが唯一の目的なのです。

この最も重要な「顧客満足」という仕事の中心コンセプトを見失い、目先の流行や知識や技術を追いかけても無意味だと思います。

むしろ最初のボタンを掛け違えるように、全てがずれてきて結果が伴わなくなります。


ここまでが前回の総論でした。

中学もまともに卒業していない私が先輩方のアドバイスに素直に耳を傾け東京に出てみて、初めて華やかなファッション界や芸能界そしてCM業界に関わっていくお話をしました。

東京で初めて就職した会社がファッションデザイナーの森英恵が経営するスタジオVだったことが幸いして、私は本来の造形する喜びや、華やかな美しいファッションモデルたちの世界に魅了されて仕事というよりも人生が楽しくてしょうがないようなハイテンションの21歳〜を過ごして行きます。

森英恵についての詳細はこちらをご参照ください。

ついこの間まで特攻服を着て暴走族に深く関わり、刹那的で何もやる気がなく、何もなりたいものがなかった自分とは全く違った自分がそこにいました。

人生は人との出会いで大きく変化することがあります。

また環境を思い切って変えてみることで人生が大きく変わることがあります。

私はその頃もっとファッション界や芸能界と深く関わりたくて、スタジオVのディレクターにニューヨークのスタジオVで働きたいと申し出ました。

スタジオVという美容室のトップディレクターは須賀雄介氏という今は亡き人物で、日本人としてアメリカで単身渡米しニューヨークに店舗を構え、ハリウッド女優などを手掛ける超有名人でした。

黒柳徹子のタマネギヘアを考案したのも彼です。

出典:https://ameblo.jp/inakoshi17/entry-12701913463.html

須賀勇介氏についての詳細はこちらをご覧ください。

その須賀勇介氏は年に2回ほど原宿の表参道店に来日してヘアショーを開催したり、私たちジュニアスタイリストのカットコンテストを審査したりする機会がありました。

私はどうしてもニューヨークのサロンで働いてみたくなっていましたが、志願者も多く、あいにくすぐには対応できないと原宿のディレクターに断られました。

入社して1年ほどでしたが、その頃スタジオVにヘアメークを生業にしている先輩が他のサロンからスタジオVに髪を切りに来ていました。

スタジオVにいた私の先輩Jさんの友人であるヘアメークのKさんの髪を切る機会があって、同期の中ではカットがずば抜けて上手かったジュニアスタイリストの私のカットをたいそう気にってくれて、その方の紹介でスタジオVを退社してヘアメーク専門のアトリエに入社することになりました。

スタジオVを退社して青山のヘアメークアトリエでトップノットというところに面接に行き、無事に入社が決まりました。

私が22歳の時で1984年ごろの話です。

1985年23歳の頃に撮影のヘアメークをした作品。

その頃私は東京に出て2年目になって少し慣れが出てきていました。

慣れというのは良い意味ではなく、悪い意味で天狗になって来ていたと言うことです。

カットやブローなど造形に長けていたことが災いして、すっかり調子に乗って天狗になっていたようです。

見ただけで手仕事を覚えてしまうという一見長所に見えるところは、実は裏を返せば楽をして出世していくようなもので、脆く儚い偽物の成功です。

手先が不器用で人一倍努力して技術を身につけた人は後に大きな成功を手にすることが多く、その成功は地道な努力というプロセスに裏打ちされた確かなものですから簡単には崩れません。

急な坂道を一気に駆け上がることは危険も伴い、転落する時も急下降して急転落に繋がります。

この作用と反作用、原因と結果についての法則は後々痛いほどわかることになります。

不器用な人は人一倍努力しなければ一人前になれませんが、必ずそこに意味があり、長所に変わるのです。

器用だった私は人一倍努力を嫌い、地味なことを忌み嫌うようなところも欠点としてあったように思います。

話を経歴に戻します。

その頃の日本ではCM界でヘアとメークが一緒になっていることが多く、一般的にヘアメークアップアーティストなどと言われることが多いようです。

私はそれまでカットやブローは得意中の得意でしたが、メークアップとは無縁でしたので、最初はメークをとても難しく思いました。

その頃から少年時代に好きだったデッサンを頻繁にするようになりました。

相モデルでアトリエのスタッフの顔を借りてよく練習を自主的にしていました。

メークが上手くなるまで2年くらいかかったと思います。

1987年ごろパリのマニアティス時代にデッサンをしている私。

しかし幼少時から造形や絵画が好きで、そういうことに長けていたことも幸いして絵画と似たところがあるメークアップは女性の顔をキャンパスのように考えれば比較的に簡単に思えました。

やはり技術の上達に近道はなく、好きになること、楽しめることが一番の近道ではないでしょうか?

1987年ごろパリのマニアティス時代に当時25歳の私が鉛筆だけでデッサインした絵画。

就職したアトリエには芸能人やCM界では巨匠と言われる有名なカメラマン、有名スタイリスト、売れっ子の女優さんなどが出入りしており、美容室は六本木と広尾にあり、私が入社した青山のアトリエは美容室ではありませんでしたが、シャンプー台やセット面がありました。

普段はヘアメークの仕事が入るまで事務所に待機という形なのですが、原宿や青山のカフェにいたり、ビリヤードして遊んでいたりしていました。

出勤も撮影の仕事が前日に入っていない時には夜中までクラブなどで遊んで昼過ぎに出勤するような怠惰な生活が習慣化して行きます。

仕事は主に麻布や六本木、赤坂にある撮影スタイジオに行って、雑誌の撮影のヘアメークやCMなどをしていました。

スタッフに中にはテレビ局によく行って仕事をしている人もいました。

売れっ子の芸能人の専属になると、テレビの歌番組などでヘアメークをしたり、歌手のコンサート会場やファッションショーなどでヘアメークをしていました。

私は桂由美というファッションデザイナーのブライダルショーによく行っていました。

そんな矢先に私の人生の一大転換点とでもいうべき転機が訪れました。

青山のアトリエの先輩でフランスはパリ市内に5店舗サロン展開しているジョンマルク・マニアティスという人物の元でカットや撮影のヘアの勉強をしているSさんという方が居ました。

マニアティスに関してはこちらを参照ください。

その伝手で、東京コレクションというファッションショーのバックステージでフランスのパリのマニアティスというサロンにチームが来日することになりました。

青山のアトリエに在籍していたSさんは退社して、マニアティスのメンバーとなって活躍していました。

その方のご縁で私はマニアティスと縁が出来たわけです。

東京コレクションについてはこちら。

出店Wikipedia

東京コレクションなど大きなファッションショーのバックステージ(裏舞台)はとにかく忙しく、モデルがランウェイを終えて、バックステージに返ってくると同時に衣装を着替え、ヘアメークをするという忙殺されるような目まぐるしい世界なので、バックステージのヘアメークはモデル数と比例してある程度の人数が必要でした。

そこで青山のヘアメークアトリエのトップノットメンバーにお声がかかりました。

Ropeなどいくつかのステージを担当していたマニアティスは共同作業でトップノットとバックステージでヘアメークをすることになったのです。

私は日本国内のテレビやファッション誌の小さなCM業界から飛躍した世界的なヘアメークのチームと仕事を共にするチャンスに恵まれました。

その当時、マニアティスはコーセー化粧品とタイアップして日本国内にFC展開することが進められており、このタイミングにマニアティスジャポンという美容室をパリのマニアティス1号店として銀座の一等地に出店することになっていました。

マニアティス・ジャポンの最高責任者はパリに数十年在住のMasatoという日本人でした。

何十年もパリに居るので、見た目は日本人のようなフランス人という感じで、とても洗練されたファッション界の巨匠でした。

Masatoに関してはこちら。

Masatoはパリでボーグ・マリクレール・エルといったファッション雑誌のヘアを担当していました。

日本ではヘアー&メークと一人の美容師が2役を担当しますが、パリは別々に分かれており、メークアップはWinstonという香港の方が担当していました。

私たち国内のヘアメークチームとパリから来日したMasato率いるヘアとメークの担当チームが共同作業でMasatoの指示に従い、Masatonoアシスタント業務を兼ねてショーのバックステージを担当していました。

東京コレクションの最終日についに運命の導きがありました。

それは私の25年間の運命を大きく変えてしまうような出来事でした。

それは・・・

この続きは次回の【その3】で自己紹介を完結したいと思っています。

最後まで読んで頂きまして誠にありがとうございました。

Dr.Shirou


はしびと式へアデザインスクール5月5日開校予定!講師の自己紹介【その1】

はしびと式へアデザインスクール5月5日開校予定!講師の自己紹介【その3】


一学期の講義内容についてはこちら

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